一般社団法人 大阪倶楽部

会館の概要

すぐれた建築はそれ自体がメッセージ。時代の息遣いを感じ、歴史を物語ります。令和の世に受け継がれた大阪倶楽部会館が発するメッセージに耳を傾けてみませんか。大正浪漫の華やかさと、商都大阪の記憶を交錯させながら、名建築の矜持を保っています。

大阪で開花した自由という名の様式

大正13年に竣工した当時の大阪倶楽部会館

大正13年に竣工した当時の大阪倶楽部会館。

大正3年竣工の初代会館。

大正3年竣工の初代会館。木造ながら、風趣に富んだ建物だった。

当時の大阪倶楽部会館の正面玄関

当時の大阪倶楽部会館の正面玄関。

西側壁面のバルコニー

花模様のステンドグラスを取り入れている。西側壁面のバルコニー。

倶楽部会館・建築情報

【旧会館】
大正2年(1913)10月着工・3年(1914)9月竣工(工期11カ月)、木造3階建・延べ床395坪、総工費95,000円、野口孫市・長谷部鋭吉設計・大林組施工、11年(1922)焼失
【現会館】
大正12年(1923)1月着工・13年(1924)5月竣工(工期16カ月)、鉄筋コンクリート造地上4階・地下1階建・延べ床1043.5坪、総工費550,000円、安井武雄設計・大林組施工

 「集う」をコンセプトに設立された大阪倶楽部。社交倶楽部にとって会館が活動の中心。日本銀行大阪支店の跡地に、設立後僅か2年で初代会館が大正3年(1914)9月に竣工。その会館が大正11年(1922)出火焼失した。会館失くして倶楽部はあり得ない。倶楽部の社員たちは一日も早い再建を目指した。設計は安井武雄氏が担当「南欧風様式に東洋風様式を随所に配し」後に安井武雄の「自由様式」の代表作となる。
 竣工は大正13年5月(1924)焼失から僅か22カ月で完成した。
 戦時化の昭和20年(1945)3月大阪は大空襲により全市の大半が焦土と化した。耐火構造の会館は無事だったが、空襲の翌日、帝国海軍により徴用され、終戦の8月今度は米軍進駐軍(GHQ)に接収される。7年後の昭和27年(1952)4月接収解除となるが館内内部は荒れ放題の状況だった。大幅な改修工事を終えて昭和28年末に復興し、今日に至っている。竣工から100年の歴史ある建築物である。
 近代建築としての評価が高まり、平成9年(1997)文化庁から国の登録有形文化財の指定を受けた。このほか、大阪市指定景観形成物(2004年6月)、近代化産業遺産(経済産業省)(2009年2月)、大阪市指定文化財(2009年4月)の指定を受けている。
 平成23年一般社団法人になりホール、会議室などの施設の利用、公開見学会等で会館内部を披露するなど、公益性を高めている。

建築家 安井武雄

 やすいたけお(1864~1955)東京帝国大学卒業、南満州鉄道建築課に入社して満州に10年間滞在。その後大阪に移り、「大阪倶楽部」が本格的な建築家としてのデビュー作になる。1924年安井建築事務所を設立。「自由様式」という独自の作風で「大阪倶楽部」「日本橋野村ビルディング」「大阪ガスビルディング」「京都競馬場」などの名作を残す。
 安井武雄の大阪倶楽部に対する設計コンセプトは、倶楽部建築は最も変化をもとめず、安定を好む建築であることを基本に「南欧風様式に東洋風の手法を加味した独自の居心地の良い建物」であった。

大正モダニズムが体現された会館は「登録有形文化財」

登録有形文化財

 大阪倶楽部会館は第2次大戦中、耐震耐火工事が奏功して度重なる空襲に耐え、終戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による接収を余儀なくされました。接収解除後、内部は荒廃していたものの、大幅な改修工事で復旧にこぎつけることができました。
 時代は移り、近代建築としての評価が高まり、平成9年(1997)には国の登録有形文化財の指定を受けました。大阪市指定景観形成物、近代化産業遺産(経済産業省)、市指定文化財にも相次ぎ選ばれます。市民にホールや会議室を貸与したり、見学会を開催するなど、会館内部を公開する機会が増えています。ご来館いただき、大正モダニズムを体感してください。