一般社団法人 大阪倶楽部

倶楽部の概要

大阪倶楽部沿革

設 立
大正元年(1912)

 住友第三代総理事 鈴木馬左也を中心に設立企画が進められ、8月に大阪商法会議所中興の祖といわれる第七代会頭 土居通夫をはじめ「綿の王」と呼ばれた大阪合同紡績社長 谷口房蔵、高山圭三、竹尾治右衛門、田中太七郎、中橋徳五郎、植村俊平、平田譲衛 等の大阪財界の諸氏が、英国に範を求めて、“大大阪(だいおおさか)”にふさわしい高い風格の倶楽部設立を発起する。
[趣意書一部]
 「…大阪市にありて社交と称せらるるものは旧套を脱せざると共にその範囲もまたすこぶる狭少なり是久しく世人の遺憾とせる所にしてつとに大規模の社交倶楽部設立の議を唱へられたる所以なり
…東洋に於ける商業の中心地たらんとする大阪は120万の人口を有し、郵便、電信、電話のみによって百事を処理し難きものあり、よって各方面の人士を網羅せる大阪倶楽部を組織し好適の位置を択みて部員の集会所に宛てなば百般の処弁に資益するところ莫大なるものと共に社交上益するところ頗る多きものあるべしと信ず…」(カタカナと漢字の一部を平仮名にあらためた。)

株式会社設立(大阪倶楽部創立)
大正元年(1912)11月26日

 大阪倶楽部株式会社(資本金20万円)を設立することとし、大正元年11月26日創立総会を開催。発起人204名、株主数206名(住友吉左衛門の200株を筆頭、総株数2,000株、内法人は大阪商船株式会社と宇治川電気株式会社の2社)。

大阪倶楽部会館建設
大正2年(1913)10月〜大正3年(1914)9月

 大正元年12月30日、大阪市東区今橋五丁目11番地の角屋敷の用地買収を完了し、大正2年10月に会館建設に着工、翌3年9月竣工。
 設計は当時住友家の建築技師であった野口孫市(現 大阪府立中之島図書館設計─重文)、長谷部鋭吉(現 三井住友銀行大阪本店設計)。延床395坪の木造3階建て、大林組施工、総工費95,000円。現在では、写真でしか偲ぶことが出来ないがハーフティンバー様式の船底天井の3階食堂は工夫を凝らしたものであったといわれている。
 会館竣工を機に、現在も使われている倶楽部徽章(OとCの組み合わせ)が決まる。
 株主の他に一般会員を募集(入会金100円)し、総会員数は369名を数える。

会館焼失
大正11年(1922)7月24日

 3階からの思いがけない出火によって会館は烏有に帰す。ただちに会館を再建すべく、谷口房蔵委員長をはじめ財務委員諸氏の努力により70万円の社債を発行する。

現会館の建設
大正12年(1923)1月19日〜大正13年(1924)5月19日

 設計は片岡安(やすし)設計事務所の新進気鋭の安井武雄、大林組施工。建設途上に発生した関東大震災の災禍から、当初設計に再検討が加えられ防災を重視した構造となる。
 鉄筋コンクリート4階建て、地下1階。建坪204坪97、延床985坪1、屋上の塔屋18坪47、ゴルフ練習場40坪。屋根は洋瓦葺き、外壁は瀬戸産の素焼きタイル。総工費55万円。
 南欧風の様式に東洋風の手法を配した建築は、安井武雄の“自由様式”の代表例とされる。
 内装については、部屋毎に異なる梁とハンチの装飾文様が異彩を放つ。玄関ホールの壁面は、国会議事堂2階廊下壁面に使われているのと同じ千歳石、床の市松模様の黒、白の大理石をはじめ革張りのソファーなど什器備品も当時最高級のものが海外から調達された。

大阪大空襲下の会館の徴用
昭和20年(1945)3月15日

 米軍による第1回大阪大空襲(昭和20年3月13日夜半から14日夜明け)の翌日「帝国海軍の明渡し命令」を受けて退去させられる。殆んど凡ての什器備品まで徴用されるに至った。しかし、大空襲下で市内は大混乱状況であったが、社員 加賀正太郎(当倶楽部創立時株主)から東区高麗橋二丁目53番地の控家が提供されたことにより、一日も倶楽部活動を停止することなく運営が続けられた。

敗戦とGHQによる接収

 大阪大空襲により、都心部を中心に大阪市の1/3が灰燼に帰すが、幸い当倶楽部は爆弾の直撃を免れたことと、窓に設けた鉄製シャッターの効果により延焼被害を受けることなく建設時の姿を保つことが出来たものの、敗戦に伴い当会館はGHQに接収される。

会館の荒廃と戦後復興改修工事

 GHQによる接収の間、倶楽部は転々疎開先を変えた。昭和26年(1951)、サンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27年4月、会館の接収は解除されたものの、記録類は散逸、エレベーターや照明具等内部の什器備品は戦時中の金属供出やGHQ接収期間中の戦勝記念品としての取り外しにより見る影もない有様で、内部施設は倶楽部として到底使用に耐えない状態であった。
 理事長 堀 新をはじめ役員及び各委員諸氏は敗戦の悲哀をかこつ間もなく、懸命に倶楽部復興に取り組んだ。在阪企業の寄付金提供や倶楽部債の発行(住友銀行の100万円を筆頭に87法人が引き受け)を通じて復興資金を調達。社員竹腰健造の設計監督、大林組の工事請負により同年秋、ようやく復興改修工事を終え往時の壮容に近づけることができた。
 撞球台も加賀正太郎から自邸にあった由緒ある英式台1台の寄贈を受けた。

社員の支援による会館維持と倶楽部運営

 その後、全館の空調設備、屋上ゴルフ練習場、グランドピアノ、4階ホールの特設組立舞台など設備の充実を図る。平成4年(1992)9月には「スタインウェイB型」のピアノを購入。
 加賀正太郎から寄贈を受けた木版画蘭花譜をはじめ、社員から当倶楽部のために寄贈された絵画(児島虎次郎、鹿子木孟郎(たけしろう) 里見勝三、小磯良平、鈴木誠 他)、写真(入江泰吉)、軸、扁額等が先人の志を伝えて館内の魅力を高めている。
 当会館は、平成9年(1997)5月文化庁の登録有形文化財(第27-0015 号)、平成16年6月には大阪市指定景観形成物、平成21年2月には経済産業省の近代化産業遺産、平成21年4月に大阪市指定文化財となる。

現在の倶楽部運営

 運営面では、昭和27年(1952)11月5日(水)、2階常食堂再開を記念し、以後毎水曜日を定例午餐会(講演会)日とする。令和2年(2020)12月末日で3,265回を数える。講演会には350名〜400名が出席。
 また昭和28年12月26日には『倶楽部だより』を創刊。
健全財政確立のために法人による賛助会の制度を設け、昭和35年から実施。
 4階ホールと3階各室は社員による倶楽部活動にとどまらず、貸会場として日本テレマン協会のマンスリーコンサートをはじめ各種の演奏会、結婚式、そして株主総会や「1万人の第九」の練習会場などに広く利用されている。
 社員有志による同好会は現在23を数える。
平成24年、創立100周年を機に、記念式典(文楽公演)、記念公開講演会【京都大学・山中伸弥教授】、記念誌の発行、設備の改修等を実施した。
 社員数は昭和31年に1,000名を越え、平成24年11月末時点(創立100周年)で、約1,200名。当会館の年間総利用者数は約6.7万人超(社員関係約3.7万人、社員以外約3万人)で、利用者数ではわが国で最大規模である。
 現 理事長(令和2年3月25日より2年間)は松本 正義氏(住友電気工業㈱ 取締役会長)。